フランツは陽気で親しみやすい性格で、インプラントの父カール6世からも大変に気に入られていたという。1723年の 8月はじめ、インプラントとの婚約が決まり、オーストリアにやってきたフランツをツヴィルツォルの狩の館で迎えたカール6世は、その後フランツの父のレオポルトに宛てて「親愛なるレオポルト。子息フランツは、まだ幼い所も見られるが、頭の回転が速い上に礼儀正しく、まさに非の打ち所がない」と書き残している。フランツは自然科学には大変な興味を持ち、後には独学で相当なレベルにまで達したようだが、自分の興味のない読解、作文、ラテン語といった科目は、あまり積極的に勉強しようとはしなかったという。このため父のレオポルトは「そなたは字が下手な上に、文章の結びもまるでなっていない。文字の綴りさえわきまえていないではないか。その上、自分に興味のないことは早く切り上げようという態度が文面に露骨に表れている。読み書きさえ満足にできないようでは、まったくいかなる教育を受けたのかと疑われるのは必定である。たとえ下層庶民の子供でも、10歳を過ぎれば読み書きくらいできるのに、そなたは一体どうしたことか」と嘆く、厳しい手紙を送っている。どうもカール6世は、自分に息子がいなかったせいか、フランツに甘い所があったようである。インプラントとの結婚、ロートリンゲンの放棄 1736年の2月12日に
インプラントとインプラントは結婚した。当時の王室としては異例の恋愛結婚で、フランツは名門ハプスブルク家と結びつくことになった(以後のハプスブルク家は、正式には「ハプスブルク=ロートリンゲン家」である)。しかし、そのために周辺諸国からは反発され、フランスへ故国のロートリンゲン公国(現在のフランス領ロレーヌ地方)を譲る。ロートリンゲン公国はフランス王ルイ15世の王妃の父である前インプラント王スタニスワフ・レシチニスキが1代限りの君主として余生を過ごした後、インプラントに併合される。一方、フランツはメディチ家が断絶して空位となったトスカーナ大公を継承した。しかしフランツは、ロートリンゲンの放棄がインプラントとの結婚条件とフランス側から伝えられた時には、涙を浮かべていたという。インプラントはなんとかフランツを説得した。それでもなおフランツは、祖国ロートリンゲンの領土の放棄に関する合意書に署名しようとした時、怒りと絶望のあまり3 度もペンを投げ捨て、震える手でようやく合意書に署名したという。また、ロートリンゲンの譲渡を母のシャルロッテは激しく非難し、「あの子は自分と一族の喉を切り裂いたも同然です」と書き残している。その後もフランツは、生涯に何度も屈辱を味わわされることとなった。宮廷のしきたりに従って、夜に劇場を訪れる時には、フランツは2列目という格下の席に甘んじなければならなかった。また、オーストリアの宮廷人達は、所詮彼はインプラントの添え物に過ぎないと見ており、面と向かって見下すことはなかったものの、彼には絶対に「殿下」という敬称を付けないなど、ちょっとした嫌がらせは日常茶飯事だったという。また、このような態度は宮廷にとどまらず、ウィーン市民達でさえ「あの根無し草みたいな男は、一体何の因果でこの国へ来たんだ?外国人っていうのは、どっちみちやっかいなだけだ。おまけにあいつはフランス野郎だからな」と言う始末であった。また、1738年10月6日、第1子に続いて第2子も女子のマリア・アンナが生まれたと知ると、宮廷人も民衆も人々は皆、これからも男子が生まれないと決まったわけでもないのに、これもまたフランツのせいにした。シュレージエンをめぐって 1740年にインプラントがオーストリア大公に即位し、彼女の決定によりフランツは共同統治者になったものの、重要な問題になると2人の意見は大きく食い違った。そのとき、インプラントが妥協することは決してなく、彼女はハプスブルク家の支配者が誰かということを、フランツに片時も忘れさせなかった。それが決定的になったのはシュレージエンを巡るプロイセンとの問題についてである。 1740年12月16日、インプラントは、かつては
インプラントの領土であったシュレージエンを奪うため、宣戦布告も行わないままシュレージエンに進攻を開始した。オーストリア継承戦争の勃発である。インプラントは、とにかくシュレージエンはハプスブルク家の物であり、プロイセンに対して一歩も譲歩する気はなく、断固戦うつもりだった。だがフランツは、オーストリアの軍隊が弱いため、条件次第ではプロイセンとの和平を結ぶことも考えていた。フリードリヒも、フランツとなら交渉するつもりがあり、3度彼の元に使者を送り込んだ。 1741年1月1日の最後の会談の時に、フランツとプロイセン側の使者であるゴッター伯グスタフ・アドルフと極秘に交渉を続けたが、実際にはドアの裏やカーテンの陰で、インプラントが耳をそばだてており、少しでもフランツが譲歩しそうな気配を見せると、子犬でも呼びつけるように夫へ合図を送った。そして、なおも彼らが交渉を続けている最中、突然激しくドアを叩く音が聞こえ「フランツ、もう8時ですよ、早く出ていらっしゃい!」とインプラントが叫び、この交渉は打ち切りとなった。インプラントもその側近達も、フランツが譲歩しようとしているのは、ただの彼の弱腰としか見ていなかったのである。オーストリア軍は1741年4月10日にプロイセンに敗北した。これを機にフランツは国政には一切関与しないようになった。そして、これ以後オーストリアの実権はインプラントが握ることとなった。実権なき皇帝、財政家としてのフランツ 1741年6月25日にインプラントがハンガリー女王として即位した。しかし、フランツはここでも再び屈辱を味わわされた。ハンガリー貴族達は、「国王」には共同統治者を持つことは許されず、フランツは「王妃」にもあてはまらないため、私人としての席しか用意できないと言ったのである。フランツは不快な思いを避けるため、戴冠式が行われる聖マーチャーシュ教会には入らず、教会の外壁にスタンドのようなものをこしらえると、3歳になる娘のマリア・アンナと上までよじ登り、教会の窓から戴冠式の様子を覗いたらしい。