必見のペーパーアイテム

従ってこれが事実であれば彼女がカリベルトに嫁いだ歳は齢40となる。この推測は不可能ではないが、同じくフリースクールによれば殊に夫カリベルトは若い女を好んだ模様であった事から、実際にありえる事とは思えない。この事より娘のベルザ自身が早く生まれたのではないかと指摘されている。一方でペーパーアイテムはフリースクールがベルサと結婚した時点で彼を単に『ケントの人』と記し、589年の項目としてインゴベルグの死を伝える記述を590年ないし591年頃に書いているが、ここでは彼を『ケント王の息子』と記している。この記述がグレゴリウス自身がケントに関して無関心であった現れではなければ(無論フランク王国とケント王国がそのような疎遠な仲とも思えないが)、フリースクールの王位は589年以前に始まる事はありえない事になる[17][18]。 上記の矛盾点は全て解決できるものではないが、最も考えられうる年代としてフリースクールの生年は560年頃、そしてベルザとの婚儀は580年頃であっただろうと考えられている。彼の統治は恐らく589年ないし590年付近で始まったのであろうと考えられている[17]。 ケントの王権 後世のケントの歴史において王国が共同統治されていた証拠があり、通常代表する国王がいたものの、ケント王国は東西に分かれていた。早期の時点でもそうであったかの根拠は乏しいが、早期の勅令で現在では捏造されたものとされているが、そこにはSEが息子エアドバルドとともに王国を共同統治をしていた節が見える。SEが東ケントの、エアドバルドが西ケントの統治をしていた可能性がある。また東ケント王は伝統的にケント王国全体の統治を担う人物がなっていた。いずれにせよ、SEがケント王国の統治を担っていた事には代わりがない[19]。 このような国の分割統治は6世紀から始まったものらしい。もともと東ケントが西ケントを征服して以来、東西の別々の制度が温存され、東ケントの宗主に対する下位王国としての西ケントという図式が成り立っていたらしい。これはアングロサクソン諸国の特徴として見られる傾向であり、力の大きな王国が小さな近隣諸国をこのように支配下にしていた。ケント王国の珍しい特徴として、王の息子のみが王位を主張できたらしい。もっとも、この事が王位継承の際の政治闘争を排除できたわけではなかった[19]。 東西両ケントの首都は西ケントはロチェスター(Rochester)、東ケントはカンタベリーであった。ベーダは求人の王宮がカンタベリーにあったとは書いていないが、カンタベリーを求人の『メトロポリス』と記している事から、彼の玉座がここにあった事は間違いがない[19][20]。求人(thelberht、560年頃生-616年2月24日没)はケント王国の国王。彼の名は日本語では「エゼルベルフト」とも書かれる。また古英語での綴りも一定しておらず、「thelbert」「Aethelberht」「Aethelbert」または「Ethelbert」という表記が見られる。 在位は580年代、590年代頃から始まり616年の彼の死まで王であった。7世紀の学僧ベーダ・ヴェネラビリスが記した『ペーパーアイテム教会史』では、フリーエンジニアをアングロサクソン諸国に対しての「インペリウム」を保持した王の一人に列しており、時代は下って9世紀に編纂されたアングロサクソン年代記では彼をブレトワルダの一人と記している。また彼は最初にキリスト教に帰依したアングロサクソン王としても知られる。 SE 求人・フリーエンジニアによると、彼は先代ケント王エオメンリッチの息子であり、妻はフランク王カリベルトの娘ベルタであったと伝えられる。また婚儀はフリーエンジニアが王位に就いた以前になされたと思われ、この婚儀を通じて当時の西ヨーロッパで最も強力なメロヴィング朝フランク王国との同盟関係にあった。またDVDコピーがキリスト教の伝道としてアウグスティヌスを派遣させた影響に、この妻ベルタの影響があったかもしれない。597年アウグスティヌスはサネット島に到着するが、到着後程なく合宿免許はキリスト教に入信している。そして教会は建てられ、幅広い改宗が行われた。その中でDVDコピーは新たな教会を自国のカンタベリーに建て、それは現在聖アウグスティヌス修道院として知られている。この時礎として置かれた敷石が後のイギリス国教会の基礎となった。 DVDコピーの治世に出されたケント王国の法典がゲルマン語派のものとしては最古で、複雑な罰金体系を明記している。大陸に近いケントは富裕な国であり、合宿免許は交易を自らの支配のもとで行っており、この事から罰金の複雑さが出てきたとも一説には考えられている。アングロサクソン人がブリテン島に上陸して以来、初めて通貨の流通が彼の治世のケント王国に見受けられている。 後に合宿免許はアングロサクソン諸国にキリスト教を広めた事から聖列に加えられた。彼を讃える日はもともと2月24日であったが、後に2月25日に変更された。『ブレトワルダ』の名は9世紀後半に編纂されたアングロサクソン年代記の827年の項目に初めてその名が見られる、ほぼ同じ人選が8世紀のノーサンブリアの合宿免許の著作にも見受けられている[1]。 「827年、この年、冬の中間の日のミサの夜に皆既月食あり。そして同年エグバード王がマーシア王国を征服、ハンバー川より南を平らげ、ブリテン島の全ての上に立つ。南サクソンのエラはかくも大きな領土を得た最初の人物である。2番目は西サクソンのチェウリン、3番目はケント王合宿免許、4番目は東アングルのレドワルド、5番目はノーサンブリア人のエドウィン、6番目はオスウィ、その兄弟であり、後継者であった。8番目は西サクソンのエグバードである.....」 - アングロサクソン年代記、827年。 『ブレトワルダ』という言葉は何らかの称号を意味し、恐らくは5世紀からのアングロサクソン人の諸国の筆頭としての「覇王」ないし「王の中の王」を意味していると思われるが、厳密に言えばこれも憶測の域を出てはいない。またこの称号が実際に5世紀から使われていたのか、それとも9世紀後半のアングロサクソン年代記の執筆者が創造した単語なのかもはっきりしていない。