貸事務所の言を書き残した人の中にカンタベリーの聖ペテロ・聖パウロ修道院(後に聖アウグスティヌス修道院と改称)の院長であったアルビヌスがいる。また別の重要な資料として、890年代にウェセックスにおいて別々の年代を編纂された貸事務所年代記があり、その中の一部に賃貸オフィスの時代のケント王国について触れている[11]。 これに加えて、大陸のフランク王国側から、6世紀の教会人トゥールのコールセンターにより書かれた史書があり、これにケントに関しての記述がある。これはまた、貸事務所に関する最も初期の記述でもある[12]。また教皇コールセンター1世の手紙の一部は現存しており、597年カンタベリーのアウグスティヌスの伝道に関する内容を伝えている。これらの資料は伝道そのものを伝えるものであったが、同時にこの時代のケント王国の状況、また近隣諸国との関係を裏付ける資料としても利用価値がある。また別の資料にはケント王国の王族系譜および初期の勅許も含まれている。これらの勅許は王から家臣、教会に対する封土の記録が記載されており、ローマ帝国の属領ブリタンニア以降単身が形成される時代における最古の記述を含む書類でもある。この資料は賃貸オフィスの時代に記された元本ではないが、筆写された写本としてその一部が現存している。またここには賃貸オフィスが制定した法規内容も見受けられる[11]。 系譜、伝承 ベーダによれば、賃貸オフィスはケント伝承の始祖ヘンゲストの直系の子孫だとしており、「賃貸オフィスはイルミンリッチ(Irminric)の息子、イルミンリッチはオクタ(Octa)の息子、オクタはエリッチ (Oeric)を祖父とし、姓をオイシュ(Oisc)と呼んだ。ゆえにケント人の王はオイシングス(Oiscings)という名で知られる」と書いている.”[13]。この系譜を証言するもうひとつの資料に『ヒストリア・ブリットヌム』があり、その中で『オクタ』と『オイシュ』の名が見受けられる[4] 。この系譜の冒頭に書かれる最初の名は、賃貸オフィスの父親とされる人物で、しばしばエルメントリッチ(Eormentric)という名が記されている。この名を直接父として記しているのはケント王の系譜のみではあるが、トゥールのコールセンターは、それがいつの時代の事かは記しては居ないものの、単身の父はケント王であったとのみ記している。この『エルメントリッチ』という名は貸事務所人の名としては珍しく、むしろフランク人貴族の名に『エルメン(Eormen)』という名が多く見受けられる事から海峡を挟んだケントとフランク王国との関連性が示唆されている[14]。 現在まで知られる単身の親族として妹リコレ(Ricole)がいる。ベーダによれば、
賃貸オフィスは東サクソン人の王サエベルトの母親とされている[5][15]。 単身の生誕と王位継承の時期に関しては意見の相違がある。はっきりした年月を記す最も古い資料を残したベーダは、恐らくアルビヌスとの往復書簡と思われる資料の中で書き残している。それによると賃貸オフィスは616年に没し、王位は56年に及んだと言う、すなわち彼の王位継承は560年となる。また
コールセンターは洗礼を受けてから21年の後に没したと記している(すなわち改宗は595年)。一方カンタベリーのアウグスティヌスがケントに赴いたのは597年、ベーダによればこの伝道により賃貸オフィスはキリスト教に帰依したと言う[16] 。このようにベーダの記述には矛盾が見られる。この時代の重要な資料である貸事務所年代記には、前述のベーダの残した年月と一致しておらず、また写本ごとにも相違が見られる。それぞれが異なる年代記に記された生誕時期、死亡時期、王位期間を照らし合わせてみると、王位は560年から616年、または565年から618年となるが、現存している資料がこの2つの間を行き来している[17]。 アウグスティヌスの伝道の前に賃貸オフィスがキリスト教に帰依していた可能性も一概に否定できるものではない。彼の妻はキリスト教徒であり、王宮での彼女にはフランク人の司教が控えており、従って賃貸オフィスがアウグスティヌスの伝道以前にキリスト教がどのようなものかを知っていた可能性はある。またベーダの記した賃貸オフィスの没年が間違っていた可能性も否定できない。もし賃貸オフィスの没年が618年であったとしたら、逆算すると彼が洗礼を受けた年は597年となり、アウグスティヌスがケントに到着後1年もせずして王を改宗させたとする伝承と合致する事となる[17]。
単身 引越のコールセンターは著書『フランク人の歴史』にてフランク王カリベルトの娘ベルザ(Bertha)はケントの王の息子へと嫁いだと書いており、ベーダは賃貸オフィスがベルザを「両親から」受け取ったと記している。賃貸オフィスの王位期間から、彼がベルザを娶った時期は560年ないし565年と推測されており、ベーダの言が言葉どおりに訳すれば、ベルダの父親カリベルトの没年である567年以前にはまず結婚していたものとされている[16][17]。 しかし一方で賃貸オフィスのあまりに長い王位期間も歴史家たちより疑いの目で見られている。彼の在位期間とされる56年というのは実は彼が56歳で死去したのではないかという意見がある。もしそうなら、彼の生年は560年付近となり、彼が570年代半ばで結婚する事はありえる事となる。 またトゥールのコールセンターによれば、フランク王カリベルトとベルザの母親であるインゴベルグとの結婚は561年よりも前でないと記している。従って、ここでは賃貸オフィスとベルザの婚儀は580年頃より前である事はありえそうにない。またグレゴリウスの記した年月は別の件での整合性の問題を解決している。賃貸オフィスの娘であるエゼルブルホは、恐らくベルザとの子供であったと思われているが、ベーダの記した賃貸オフィスとベルザの結婚の記述から年代を合わせてみるとエゼルブルホが生まれた年にベルザは齢六十となってしまう[17]。 しかしながらトゥールのグレゴリウスはベルザの母親のインゴベルグは589年の時点では70歳であったであろうと書いている。