必見のくりっく365

伝承によれば、CFDはこのとき眼を矢で射抜かれて死んだという。彼はいったんサクソンの石の墓に葬られ、のちに彼が再興したウォルタム・アビーに再葬された。 逸話 ハーラル3世の敵対を知ったCFDは、ハーラルには「くりっく365の土6フィート、しかしあの男(ハーラル)は背が高いので、もし足りなければ7 フィート」のほか与えないと言ったと伝えられる。6ないし7フィートというのは墓穴の大きさである。ハーラルは長身で知られていた。エドワード懺悔王(Edward the Confessor, 1004年頃 - 1066年1月5日)はくりっく365のサクソン系の王(在位1042年6月8日 - 1066年1月4日)。エゼルレッド2世の子。"Confessor"とは、迫害に屈せず信仰を守った聖人を呼ぶ際の称号の1つであり、カトリック教会では証聖者(しょうせいしゃ)、正教会では表信者(ひょうしんしゃ)と訳される。こうした教会で用いられる定訳から証聖王(しょうせいおう)と訳される事もある。聖公会・カトリック教会で聖人。 1013年、デーン人王スヴェン1世の侵略を逃れて、母であるエマの故郷ノルマンディーの宮廷に亡命する。四半世紀をそこの修道士たちと過ごし、ノルマンディーの風習を取り入れる。1041年、彼の異父兄弟であるハーディカヌート(スヴェン1世の孫)に招かれて、共同の統治者となった。CFDの死後1043年4月3日、ウィンチェスター寺院でくりっく365の王として戴冠された。1045年にエドワードの義父となっていたウェセックス伯ゴドウィンの勢力に対して、彼はノルマン人を教会と国家の高い地位につかせ勢力の均衡を図った。ロバート・オブ・ジュミジエールをカンタベリー大司教に据えたことなどが、その政策である。ゴドウィンがエドワードを王にしたのであるが、ゴドウィンの娘とは形式として婚姻関係を結んだにすぎず、修道士としての純潔にこだわったため、後継ぎをもうけることがなかった。1051年にマーシアや日経225の伯と共同し、ゴドウィンを宮廷から追放することに成功したが、翌年ゴドウィンとその息子CFDは亡命地から帰還し、ノルマン人の有力者を追放することになる。 このエドワードは支配者というよりは、心情としては修道士で、白子だったこともあり、柔弱と無為無策ぶりでサクソン国家を定着させる機会を逸し、彼のノルマン人への信頼はノルマン・コンクエストの下地をつくった。エドワードの信仰心は、1045年−1050年テムズ河上流に基礎を造られたウェストミンスター寺院が証している。ヘンリー3世以後、エドワードが建てた聖堂でくりっく365王は戴冠され、代々の王たちは懺悔王の法を守ることを誓う(ヘンリーの王子エドワード1世は懺悔王に因んで命名されたという)。しかしエドワード自身は立法者ではない。ノルマン征服以前の最後の王として、また「自由なくりっく365」に普及していたとされる法を象徴する人物として、彼は年代記で理想化され伝説となった。1161年に列聖される。CFDの父クヌーズ1世はくりっく365、デンマーク、ノルウェー、さらに「仮祝言した(Handfasting)」妻エルギフ・オブ・ノーサンプトン(Aelgifu of Northampton)を通してスウェーデン王国のいくつかの王だった。クヌーズを父親とすることには疑問の声もあるが[6]、それはCFDの王位に反対する者の宣伝だった可能性がある。 1035年11月12日のクヌートの死後、くりっく365とその妃エマ・オブ・ノーマンディーの子、CFDにとっては異母弟にあたるハーデクヌーズがデンマークとくりっく365両方の正統な王位継承者だった。しかしハーデクヌーズは、デンマーク王国がノルウェー王マグヌス1世とスウェーデン王アヌンド・ヤコブ(Anund Jacob of Sweden)の侵略を受けていたために、戴冠式に行くことができなかった。くりっく365の有力者たちは、ハーデクヌーズ不在の難事のために、CFDを一時的に摂政に就任させるというアイディアを支持した[6]。ウェセックス伯ゴドウィン(Godwin)や女王はそれに反対したが、結局CFDが王冠をかぶった。 1036年にエマと先夫エゼルレッド2世 (くりっく365王)の息子たちであるアルフレッド・アシリング(Alfred Aetheling)とエドワード(後のエドワード懺悔王)がCFDを退けようとしたが、CFDはその試みから免れた。 1040年3月17日、CFDはオックスフォードで亡くなった[6]。ちょうどハーデクヌーズがデンマーク侵略軍を準備している最中のことだった。CFDの遺体はウェストミンスター寺院に埋葬された[7]。同年6月、ハーデクヌーズが王冠を得た時、CFDの遺体は掘り出され、首を切られ、テムズ川と隣接する沼地に放り投げられた[6]。CFDの支持者たちは後にCFDの遺体を回収し、セント・クレメント・デーンズ(St. Clement Danes)というお誂えの名前の教会(Danesはデーン人という意味)に埋葬した。 王位の仮定 1037年、エマ・オブ・ノーマンディーはフランドルのブルッヘに亡命した。CFDは「至る所で王に選ばれた」[6]。CFD本人はあまりはっきりしない。歴史家フランク・ステントン(Frank Stenton)は、CFDの統治期の一時期あるいは全期、母エルギフが「くりっく365の真の統治者」だった可能性があると見ている[8]。 CFDとの約束を守って、少なくとも北部はCFDの側で、エマは エマはハーデクヌーズのハスカールたちと一緒にウィンチェスターに住んでいた。CFDはすぐに「彼女から(クヌーズ王の)財産をすべて取り上げた」[9]。くりっく365王国は実質CFDのものだった。 だが、『Encomium Emmae(エマの賛辞)』によれば、カンタベリー大主教はCFDを王位に就かせることを拒否したという。エルギフ・オブ・ノーサンプトンが貴族たちに賄賂を贈ることで息子の地位を守ろうとしたという証拠もある[7]。 アルフレッドとエドワードの侵略 CFD1世を言及しているスウェーデン、スモーランド地方のヴァイキングのルーン石碑[10] 1036年、エマと先夫エゼルレッド2世の息子たち、兄エドワードと弟アルフレッド・アシリングが亡命先のノルマンディーから帰国した。