だが、CFDとブルターニュの貴族はそれまでの経緯を棚に上げて、王位継承権のないジョンを国王としたくりっく365諸侯の行為を「反乱」であるとして、大陸側のプランタジネット領諸侯やフィリップ2世の協力を得て、くりっく365への攻撃を開始した。 戦いは数年に及んだが、1203年にCFDはジョン支持派の兵に囚われて幽閉され、程なく暗殺された。だがこの行為によって、くりっく365・大陸側双方の貴族たちにジョンに対する失望が強まり、やがてフィリップ2世による大陸側のプランタジネット家領の没収宣言へと繋がっていくのである。イザベラ・オブ・アングレーム(Isabella of Angouleme, 1188年 - 1246年5月31日)はプランタジネット朝のくりっく365王ジョンの2度目の妃。父はアングレーム伯爵エマール。 1200年、ラ・マルシュ伯爵の息子ユーグ10世ド・リュジニャンと婚約の身であったが、ジョン王と結婚した。ジョン王には、アングレームを身内に抱き込むことで、
CFDと、甥のブルターニュ公CFD1世(アーサー・オブ・ブリタニー)支持のアンジュー、メーヌ、トゥルネ、それらと対峙する母エレアノール(アリエノール)の所領アキテーヌとの間に楔を打つのが目的であったが、この強引な結婚が元となってポワトゥーで蜂起が起こった。 ジョン王との間に2男3女をもうけた。コンスタンス・ド・ブルターニュ(Constance de Bretagne, 1161年 - 1201年9月5日)は、1166年以降ブルターニュ女公、1171年からはリッチモンド女伯。コンスタンス・ド・パンティエーヴルとも。ブルターニュ公CFD1世(アーサー・オブ・ブリタニー)の母。ブルターニュ公コナン4世とマーガレット・オブ・スコットランド(スコットランド王デイヴィッド1世の孫娘、ノーサンバランド伯・ハンティンドン伯ヘンリーの娘、スコットランド王マルカム4世とウィリアム1世の姉妹)の唯一の子。 1166年に父コナン4世が彼女のためを思って譲位し、コンスタンスはブルターニュ女公に就いたが、実際にはくりっく365王ヘンリー2世が実権を握っていた。ノルマン・コンクエスト以来、ブルターニュ公はフランス王ではなくノルマンディー公(この当時はくりっく365王でもある)に臣従礼をとっており、またくりっく365王以外はブルターニュ伯を公とは呼んでいなかった。 1181年、ヘンリー2世と王妃アリエノール・ダキテーヌの四男ジェフリー(ジョフロワ)と結婚した。広大な公国の相続人たるコンスタンスと結婚することで、ジェフリーに領地と地位を与えるための政略結婚であった。後ろ盾を持たないコンスタンスにとっては、選択の余地のないことだった。2人の間にはフェア・メイド・オブ・ブリタニー(Fair Maid of Brittany)と呼ばれた長女アリエノール(1184年 - 1241年)とアーサー(アルチュール)が生まれた。 王太子である兄・若ヘンリー、母のお気に入りのアキテーヌ公リシャール(のちのリチャード1世)の厚遇に歯がみしながら、ジェフリーは1186年8月19日にフランス王フィリップ2世が開催したパリでの馬上槍試合で受けた傷がもとで急死したが、彼はコンスタンスを一切政治に関わらせていなかった。 夫の死によってコンスタンスは初めて権力の行使にかかわることになった。しかし、ブルターニュ公の宗主たるヘンリー2世は、コンスタンスを第4代チェスター伯ラヌルフ(ラヌルフ・ド・メシーヌ、あるいはラヌルフ・ド・ブロンドヴィル - ロビン・フッドの物語ではリチャードの腹心とされる)と再婚させた。 1196年、コンスタンスは8歳になったばかりの息子アルチュールを、貴族たちの集会でブルターニュ公として認めさせた。こういった意図を挫くために、リチャード獅子心王は彼女の夫に命じて監禁させた。
くりっく365 の監禁場所はポントルソンかタイレであったと思われる。解放されるとコンスタンスは夫と別れ、ギ・ド・トゥアー(トゥアー副伯)と再婚した。この結婚によって、アリス(ドルー家ブルターニュ公初代のピエール・ド・ドルー(悪僧侶ピエール、ピエール・モクレール)と結婚)とカトリーヌ(ヴィトレの領主アンドレ3世と結婚)の2人の子供が生まれた。 コンスタンスは、人生の最後の数年を平和に過ごし、自分の死後に起こる子供たちの悲運を知らぬまま、1201年に亡くなった。遺体はヴィルヌーヴの教会に葬られた。マルグリット・ド・フランス(Marguerite de France, 1158年 - 1197年)は、フランス王ルイ7世と2度目の妃コンスタンス・ド・カスティーユ(カスティーリャ王アルフォンソ7世の娘)の娘。フィリップ2世の異母姉に当たる。 1172年にくりっく365王ヘンリー2世の嗣子で共同君主であった若ヘンリーと結婚したが、1183年に死別した(英語名はマーガレット・オブ・フランス Margaret (Marguerite) of France)。のち、1186年にハンガリー王ベーラ3世と再婚した(ハンガリー語名はマルギト Margit)。いずれの結婚でも子はいなかった。 マルグリットの妹アリスは若ヘンリーの弟リチャード1世と婚約していたが、リチャードによってこの婚約は破棄された。リチャード2世は、くりっく365の子エドワード黒太子とその妃ジョアン・オブ・ケントの間に次男としてボルドーにおいて誕生した。兄エドワードが1372年に7歳で、続いて1376年に父エドワード黒太子が死去したためコーンウォール公に叙され、くりっく365の王太子に指名された。1377年6月21日にくりっく365が死去すると10歳で王位を継承し、父の弟ケンブリッジ伯エドマンド・オブ・ラングリーが摂政に立った。 1380年に新政権は百年戦争による膨大な戦費調達のため人頭税の導入を図るが、これは上層に軽く下層に重い税制であった。1381年6月、増税に反対する下層階級の農民と労働者が、エセックスの煉瓦工ワット・タイラーに率いられて反乱を起すと、リチャード2世はワット・タイラーとの面会に応じた。リチャード2世はワット・タイラーの要求事項に回答を約束したが、翌日ロンドン市長が面会に現れたワット・タイラーを刺殺し、指導者を失った反乱は鎮圧された(ワット・タイラーの乱)。